多良木町の歴史

 

歴史とロマンの里 多良木町

縄文時代から人が居住していたと言われています。昭和20年代には人口約2万人を数え木材の集積・加工生産地として人吉盆地でもっとも賑わいをみせ、木材の買い付け人が全国から訪れるなどして、料亭や旅館業も栄えました。

 

 

太田家住宅(国指定重要文化財)

農業のかたわら、焼酎を製造した茅茸(かやぶ)き民家。実り豊かな平野に佇む茅葺きの住宅。相良家の家臣として人吉に住んでいた太田家は、この地に移り住み、農業と酒造業を営んだ。
人吉球磨地域を代表する鈎屋様式の民家は大きな価値を持つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

王宮神社

大同2年(807年)、王宮大明神として源嶋の地に奉り、のちに現在の黒肥地是居(ぜい)へ遷座。以後、上相良氏・下相良氏によって、代々造営や修復を繰り返し、楼門は応永23年(1416)上相良氏7代・相良頼久が建立したと伝えられる。楼門は三間一戸、茅葺きの屋根寄棟造りで、熊本県最古の唐様楼門。なお、全体の老朽が著しかったため、平成2〜3年に解体修復工事が行なわれ今日にいたっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

百太郎溝

人々が糧を得るためには、大地を潤す水が必要だった。開削は鎌倉時代から続いたと伝わる百太郎溝の完成は1710年。

多良木町にはじまり、球磨川の水を取り入れて、あさぎり町から錦町まで流れる溝は延長約19km、
灌漑面積約1,000ha余りに及ぶ、その陰には、水神様のお告げで人柱となった百太郎の物語が遺されている。